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LYST Tips

~ビジネスのちょいヒント~

#1億円に使われた男の選択の代償No41~No51
#1億円に使われた男の選択の代償No31~No40
#1億円に使われた男の選択の代償No21~No30
#1億円に使われた男の選択の代償No11~No20
#1億円に使われた男の選択の代償
07:56

#1億円に使われた男の選択の代償

初めまして、私「20年前に1億円を手にして、その1億円に使われた男」、亀川と申します。 そしてこの1億円をどうしたのか?現在は現金では何も残っていません。しかし、自分の中に多くの経験値として貴重な事を学びました。本日、第一回目という事で、自己紹介をさせていただきます。 1965年3月に大阪府門真市に生まれました。ごく普通のサラリーマン家庭でした。その後、幼少期は奈良県で過ごし、小学校~高校卒業までは宮崎県日向市に居ました。その後、信州大学へ進学しまして、27歳の時に当時在籍していた企業の転勤辞令で、東京国分寺市に上京しました。 その後、日本企業から外資系企業に移り、様々な仕事をさせていただき、35歳の時にサラリーマンを辞めて起業することになりました。その際に、スポンサーから創業資金1億円を手にしたのです。 それから20年経過し今は、株式会社LYSTの代表を務めております。 このVoicyのチャンネルをなぜ始めたかというと、この私の約30年近くのつたない経験値をこれからの若い世代、20・30・40代の方々にただ、その経験を伝えるのではなく、過去の自分を振り返り、反省・後悔、挫折を冷静に見つめながら、「あの時こんなことを知っていれば・・・」とか、「あの時迷った結果は・・・」など自己分析をしつつ、これからの未来を気づいていく方々の一助になれることが少しでもあれば、それを情報として共有したいという思いです。 現在は、自分の会社で「企業コンサルタント」を標榜して活動していますが、とどのつまりコンサルタントなんて「合法的な詐欺師」と自覚しております。結果として、企業クライアントの支援が成功すれば評価されますし、成功することが必須とされてるのが日本の企業文化です。しかし、その本質は「ヒト」です。ヒトが思い悩み、考えて行動するその結果として、何ができるか?何ができたか?となりますが、この思考の内容や大きさ・深さ=スケールは様々です。その思考の一助が何かを一緒に考えていきたいと思います。 最近言われているのが、アフターコロナですね。この状況が一旦終息した後に、「新たな生活スタイル」なんて言われてますが、そこにどのようなビジネスが生まれ、生き残れるのか?今のところ私自身も暗中模索といったところでしょうか・・・ 仕事以外では、趣味のバイクツーリングに出かけて写真を撮ることも出来ず、フラストレーションが堆積していく一方で、気分転換をどうするか工夫したいと思いつつも、結果、自分のオフィスにいる時間が一番落ち着く・・・まさに昭和の人間です(笑) テレワークが一般化されて、仕事上での組織に属する概念が自分の頃とは随分変わりました。在籍というのは在席(座る場所)があるという意味合いが強かったのが、今では、フリーアクセスやモバイル環境の浸透で、今の20代の方々はどのように感じてらっしゃいますか? 私の過去20年の振返りをベースに、1億円の行方も含め進めていきたいと考えております。日本の社会経済はご周知の通り「資本の原理」で動いております。その中で、私も皆さんも、日々、生活しています。 基本、生活に欠かせない「お金」については関心のある方が多いと思います。企業にとっても資金は組織の血液です。そして昨今では、この資金以外にもう一つ「情報」が組織の血液の一部としてその存在感を増しています。 それを振り戻すと、個人にとっても情報は「生活」に欠かすことのできない血液にも似た存在価値がありますが、いずれにしてもこの情報の質や価値が低かったり精度が悪ければ、どこかで機能不全的な現象が起こり、破綻します。つまりインプットされる情報の価値や質は、活動そのものの結果に直結していると言えます。今後、お役に立てるようなお話ができたらいいなと思いつつ、これで終わります。次回、是非おきき逃しなく!
#1億円に使われた男の選択の代償_2
08:52

#1億円に使われた男の選択の代償_2

おはようございます、私「20年前に1億円を手にして、その1億円に使われた男」、亀川です! 本日は、第二回目です。昨日は簡単な自己紹介しました。本日は、私の個人的な趣味のお話から・・・丁度70年代後半から80年代前半は日本のJ-POPもTBSの「ザ・ベストテン」が全盛で、アイドルや様々な音楽が出てきて流行りましたね。同級生は、松田聖子や中森明菜といった鉄板のアイドルを追っかけていましたが・・・自分は全く興味がなくて、ギターに興味を持ち始めてまして、毎日弾いてました。(笑)そして聞いていたのが、当時のフォークソングとかでしたが・・・中学三年の頃から、なぜか渡辺貞夫にはまってました。キッカケは、YAMAHAの発売していたミニバイクのCMのBGMでOrange Expressを聞いた事でした。 その後、高校に入ってなぜかラグビー部に入っちゃったんです。理由は、グラウンドの上でなら正当に殴り合いの喧嘩に近いことができると思ったんです。なぜか、エネルギーを発散したかったのかもしれません。練習や合宿はきつかったですね・・・一気に体育会系の思考になって・・・成績も一気に急降下して酷かったです(笑)  話は変わりますが、このVoicyって、自分にとってはある意味やってみたい事の一つでした。それは、中・高生の頃よくラジオを聞いていたのですが、当時午前0:30からの城達也のジェットストリームにはしびれてました。飛行機の音と、音楽が流れてきて・・・「いつか、DJやってみたいな・・・」なんて思ってたことを思い出しました。 そして、1億円を手にして起業した際にも「いつかは、自分でラジオ番組をやってみたい」なんて思ってました。あくまでも成功した暁のつもりでしたが・・・それが、今?って感じですが・・・ 結果、このような形で自身で声を出していることも不思議とも思いつつ、お聴きの方にはどのように伝わっているか不安でもありますが・・・ 質問やご意見は、遠慮なくメールでください。可能な限りお答えします。併せて、SNSのnoteやYouTubeでも発信してますので、よろしくお願いします。 私の会社は、昨日、コンサルティングをやっているとお伝えしましたが・・・具体的にどんなことをやっているかという質問もよく受けますので少し触れさせていただきます。自分は理系の大学に進んだので、本来は縁のない世界のはずでした。しかしながら、なぜか、20代前半の頃に「営業マン」になりたくて、まったくの無知のままその職種に就きました。 今思えば、ホントに恥ずかしいほど無知でした。と30年以上前は、業務処理ってカーボンの複写伝票でした。見積書も納品書も手書きで、そりゃ酷いもんでした。3桁区切りでの数字の書き方も知らなかったのです。加えて、企業へのルートセールスで毎日、車で回ってました。当時はアポイントも知らず、適当に、回っていたのが事実です。 先輩に連れられて、クライントの担当者に怒られに行ったり、倉庫での不良品の処理の手伝いしたり・・・一番笑っちゃうのは、ある工場の購買部門の課長に「何か売るものないですか?」なんて言ってました。そんな三流ダメダメとしか思えない自分でした。何故、今の状態になったのか?今思えば、最初の転職でお世話になった上司に今でも頭が上がりません。本当にお世話になって、ダメダメの自分を営業現場で、エースで4番に育ててくれたことには、心から感謝しています。今でも、連絡とってはいます。また、上京してからも、もう一人お世話になった大先輩がいまして、昨年末からまた連絡取りあえるようになったことがホントに貴重な財産です。 20代は駆け出しの若造で、30代前後がホントの下積みだったような気がします。そして、40代で現実を知り、ようやく50代で何とか一人前になれたかどうか・・・今でも自分に問いかけます。 振返ると、20代の頃の自分はホント情けなかった気がします。今でも思い出す度に恥ずかしいです。お話ししながら記憶をたどるのが怖いほどですが、少しずつなぜ、1億円を手にしたのか?そしてなんであんなことになったのか?この続きはまた次回。是非、お聴きのがしなく!
#1億円に使われた男の選択の代償_3
09:08

#1億円に使われた男の選択の代償_3

おはようございます、私「20年前に1億円を手にして、その1億円に使われた男」、亀川がお送りしております! さて、本日は6月3日です。2020年も早いもので既に上半期が終わろうとしています。今年はコロナショックの影響で、大手の決算発表も5月の段階から下方修正されております。私も含め中小企業の経営者の多くが、この先の不安を抱えていることと思います。 もしも、あなたが今、経営者だったとしたら・・・何をビジネスにされているでしょうか?コロナ以前は、景気も好調な側面もありましたが、今現在はまず復調最優先で盛んにアフターコロナのビジネスについて様々な業界で沢山のアイデアや変革が出てきています。 ただ、これまでのベンチャー企業の在り方も再考する時期に来ているのかもしれません。それは、日本の経済環境における企業経営の在り方が、日本独自の資本原理と本来の投資の意義とのズレが少しずつ顕在化してきている気がします。 本来、投資とにはリスクあるものです。しかし、日本の企業文化においては、このリスクが大変嫌われてきました。具体的には、日本の会社文化においては失敗した経営者は、やり直しがしにくい環境にあるという事です。欧米の場合は、再チャレンジを後押しする場合が多い、その裏側にはリスクに対する認識と、失敗そのものが大きな価値のある経験値として認識されていると思います。 この番組の中では、このような場面のお話も交えてお伝えしていきたいと思います。 さて、昨日は私のお恥ずかしい頃の話に触れましたが、そもそも、なぜそのような恥ずかしい自分であったのか?を考えてみました。 先ず、最初に今でも後悔して止まないのは高校卒業後に大学に入ってから全く勉強してなかった自分に原因があったことです。親元を離れ、一人暮らしを始めてから24時間全て自分の好きなように過ごせることと、通学すること以外の生活ルールは全て自由(フリー)であると感じ、勝手気ままに生きていた事でした。今にして思えば何たる愚かで幼稚であったか・・・高校時代、ある教師に「自由の究極は不自由である」という言葉を言われたことを思い出します。 そして、学びの姿勢もなく好き勝手に生きてきた割には「自立した」と大きな勘違いのまま20代半ばに入りました。最初の結婚もそのころ。27歳の時に長男が誕生したと同時に、上京したのです。 その後は、一応当時の社内ではある意味特別扱いされた時期を経て、アッサリその会社を辞めてしまいました。周囲の反対や助言など全く聞こえなかったのかもしれません。 そんな恥ずかしい自分の事を晒しながら、お話ししているわけですが、正直どこまで話すべきか戸惑っています。もし仮にこの話を続けていった場合の自分に対する不安や動揺は制御不能かもしれません。 しかし、若い可能性のある方々が何かに向かい、挑戦しているのを見た場合、老婆心ながら、せめてものお話をしないでいられなくなります。 やはり、50半ばを過ぎ、自分自身が老いた証拠であろうかとも自覚します。体力的にも、衰えを確実に感じつつ、精神的な強靭さは保ちたいと思う反面、「少しくらい楽になりたい・・・」気持ちも悪魔のささやきのように聞こえてきます。 若い頃は、50歳と言えば随分年上で高齢な方々のイメージがあったのですが、今の自分を振り返るとまだまだ未熟に感じ、気持ちは30代前後のままのような気もします。って考えていること自体が年を重ねたという事でしょうか(笑) 次回から、1億円を手にする軌跡をお話ししていきます。
#1億円に使われた男の選択の代償_4
10:00

#1億円に使われた男の選択の代償_4

おはようございます、私「20年前に1億円を手にして、その1億円に使われた男」、亀川がお送りします。 本日は、6月4日・・・何の日か???虫歯予防デー(笑)です。自分も3年前に左奥歯を入れ歯にしてしましました(笑) ローメンの日でもあります。長野県伊那市の名物料理で、羊の肉と固めの中華麺を独特のスープで煮込んだものなんです。学生時代長野県で過ごす時期がありましたが、このローメンを食べた時は結構複雑でしたね。ラーメンのようでもあり、焼きそばのようでもあり、そして食べる際に、ウスターソースをかけて・・・不味くはないのですが、初めての感覚でした。 さて本日は、このチャンネルのタイトルにある「1億円」をどのような経緯で手にしたか?についてお話していきたいと思います。 その前段に、そのような状況になっていく過程を少しお付き合いください。 最初は日本企業で、勤めていました。1社目は小さな地方のモノづくり系のメーカー法人企業へ様々な材用や部品を販売するルートセールスでした。樹脂やゴムなどの金型による成型したものや絶縁材料です。そしてそこでの最初の転職のきっかけは、ある時大手クライアントから相談された大型案件のお話でした。あるユニットを金型から起こして継続的に流すとても興味深いものでした。通常ですと、自社の工場での加工を主体としていましたが、モノがモノだけに専門の外注先を探して打合せを進め、図面等も取り交わし提案しようとした際に、上司に報告したら「うちじゃ、身の丈が合わない仕事だから引け」と指示されました。20代前半で、それを言い渡された際に、愕然としました。もっと大きな仕事やビジネスをこの会社では目指すべきではないと知った際に、一瞬にしてモチベーションはダダ下がりでした。 その後、当時の地元で少し参加していたラグビー同好会のトップの方に、「うちに来ないか?」と誘われたのです。ただ、先の件が嫌でこの話に乗ったのではなく、自身の中にある目標みたいな話をした際に、琴線に触れた気がしました。それは「いつかは北米に行って仕事がしてみたい!住んでみたい!」という10代からの夢の実現の可能性があるかもしれないと言われたからです。いつかは、この田舎(当時は、諏訪市在住)から出て、もっと大きなステージに行きたいと常々思ってはいましたが、その頃の自分では全く縁がない情けない自分でした。 そして、誘われた会社に転職しました。誘っていただいた方は、現状の営業所から分離して新たな営業所を作りたいという目標をお持ちでしたので、私もその目標に向かって一緒に仕事をさせていただきました。大変いい経験でした。日々の営業活動と並行して、新たな事務所の物件探しや、事務員の募集などやれることは何でもやらせてもらえる環境でした。 そして、スタートしたその新営業所は、今でも存続拡大しているようで、売上も過去振返るとマイナス成長することなく進んでいったのです。 その後、その誘ってくれた新しい上司となった所長が、「次は、お前の夢に向かってできる限りの後押しをするぞ」と断言してくれました。 それは、営業マンとしての成績もさることながら、社内公募の際に、直属の上司とその上の部長が、全面的に社内の幹部会で強く自分を後押ししてくれたのです。その公募とは、「北米LAの副社長のポジションです」その現実が、自分の目標と重なったときの鼓動は今でも忘れません。そして、社内検討の結果、役員会での承認を経て、その座の指名を受けました。ホントに嬉しかった。そして27歳の時に東京へ転勤辞令を得て、先にお話しした国分寺に住むようになりました。 本社での仕事は、担当を持ちつつも、他の営業現場の支援をしていく経験をさせていただきました。 その後、最初の渡米とLAでの研修生活を経験することになりました。LAの空港に降り立った際の興奮は、それまでの自分の中で、一番だったかもしれません。思わず、地面にほおずりしたくなる気持ちでした。 しかし・・・そんなに甘くなかった・・・この続きは次回へ
#1億円に使われた男の選択の代償_5
10:16

#1億円に使われた男の選択の代償_5

おはようございます、私「20年前に1億円を手にして、その1億円に使われた男」、亀川がお送りします。 コロナによる非常事態宣言が明けて、2週間が経とうとしてますが、皆さんの生活はいかがですか?コロナ以前に戻った方々もいらっしゃいるようですし、それまでとは全く違った生活になったという方もいらっしゃると思います。 私が一番感じるのは、これまでの自分自身の中で大切にしていた事やものに対する視方が大きく変わりつつあることです。なんとなくヒトの価値観がアップデートされていくような・・・そんな空気感を感じております。 さて、本日は昨日の続きをお話ししたいと思います。 27歳でLA空港に降り立って、興奮冷めぬまま現地のオフィスに入る前に、初回の短期研修滞在ですので、ビジネスホテルに入るわけですが、ここで初めての経験をしました。それは、先に送った荷物が当日に届かず、ダラスか他の空港に飛んで行ってしまったことです。これには、まいりました。着替えも、何もない状態で3日間ほど過ごすことになりました。 ここで初めて、日本とは違うと実感しました(笑) それから、レンタカーを借りて自分で運転して移動することになるのですが、いきなり左ハンドルの右側通行です。慣れるまでに自分でもひやひやしました。それ以上に色々とありましたが・・・・ その後、一旦帰国し、日本での仕事をした後に、1992年に単身で渡米し、現地での生活を経験することになりました。 ご存知の方も多いと思いますが、異国の地では何かしらのコミュニティが形成されています。北米でも、JBA(Japan Business Association)というがあり、定期的に早朝ミーティングがあります。朝の7:00くらいからホテルのバンケットルームに集まり、朝食をとりながら、様々な方々とお話ししたり、名刺交換したりします。 その日のメインスピーカーの方の講演の後に散会となる進行です。この朝早い始動にはかなりギャップがありました。日本では、夜鷹派でしたので・・・ その際に、日本でとても挨拶もできない方々と名刺交換させてもらったことを記憶しています。 その中で、一番印象に残っているのがLAの駐米大使館の方で、東大出身の方の言葉でした。それは、「一般の企業(会社)というのは、どのように収入が得られているのか、私にはピンとこないんですよね。商売(ビジネス)の話をされてもイメージがつかめなくて・・・」とおっしゃったのです。 これには、驚きました。まさに、自分とは異次元の住人だという事です。正直、絶句ですよ!絶句!こちらから返す言葉がないというのはこういう事でしょうかね(笑) 今思い返すと、その方にはお金はどのように見えて、映っていたのかな?と不思議な気がします。併せて、「仕事」って何だろう?とも思います。 その後、数カ月経過していったん日本に帰国したんです。そして帰国後、3か月経った頃にこの件から自ら降りる決断をしました。理由は色々ありましたが、今となっては、自分の未熟さの一言で片づけておりますが・・・・ これを契機に、自分の生き方についても大きな心境の変化がありました。それは、「このままでは自分は、終われない、終わりたくない・・・だけどどうすべきか?どうしたらいいのか?」と思い悩んだ数カ月の後出した答えが「外資系企業に挑戦しよう」と考えたのです。 そもそも、LAに行くことが目標のようになっていた自分に気づき、一旦は手にしたチャンスをなぜ、手放したのか?もちろん、言葉(英語)の問題もありましたが、それ以上に、自身の品質(クオリティ)が低い事と無知である(不勉強さ)ことに自己嫌悪におちいったことが一番だったような気がします。ホントに、自分は無能な人間と、人生で最初の挫折という感覚でした。 しかし、それはほんの序章に過ぎなかったのかもしれません。その後の自分の人生において、この件は一つの契機(キッカケ)にしか過ぎなかったように思います。 本日は、この辺で・・・次回、外資系に移ってからのお話を交えて進んでいきたいと思います。おきき逃しなく・・・
#1億円に使われた男の選択の代償No1~No10
コロナウィルス蔓延状況の中での政策について・・・

コロナウィルス蔓延状況の中での政策について・・・

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コロナウイルス蔓延状況の中での政策について・・
#選択の代償_番外編No16~No30
#選択の代償_番外編No31~
#選択の代償 番外編(不定期)4|企業内における課題と問題
09:36

#選択の代償 番外編(不定期)4|企業内における課題と問題

【企業内の課題と問題】  某大手企業内部での話である。全国規模のグローバル企業でもあり、従業員や組織構造も大きくしっかりしている(はずである)。そこで、営業部と業務部が別組織で構成されており、営業部からの業務フローに基づき、業務部は見積書、受発注、契約関係、請求関係、それにまつわる一切の業務を粛々とこなしている(はずである)。その中で勤務するSさん(ベテラン女性)から相談をされた。 それは、現在所属する業務部の中で移動の辞令が出された。彼女は、これまでAグループ、Bグループの2つのグループで勤務した経過があり、部長直々にCグループへの移動となった。Sさんは、勤続15年以上のベテラン中のベテランで、部長、本部長、取締役も含め、入社同期の方もいてかなりお局様的存在でもあるが、本人は至って大人しく、あまりガツガツ仕事をするタイプでもないが、長年の経験で社内での信頼度も高く、それなりのポジションにもいてもおかしくないのだが、敢えて一般社員のままで居たいとしてきたが、今回、総合職へのアップデートを前提での移動である。移動前に、A・Bそれぞれのグループ長とも仲良く話をして「もし、Cグループでうまくいかなかったら、すぐ戻るから席明けておいてね」っと。 これには、理由がある。この業務部の3つのグループにはそれぞれグループ長がいるが、A・Bのグループ長は特に仕事上も私的にも問題もなくコミュニケーションが円滑で、業務フローそのものも共通化されており、いざという際には双方で助け合える関係にある。しかし、Cグループ長は、数カ月前まで本社営業部のグループ長であったが、何かしらの社内トラブルで、暫くの期間、人事預かりであった後にこの管理職に配属されたようである。 Sさんは、移動して2週間後にとんでもないことを知った。それは、Cグループの業務フローの実態が、A・Bとは全く異なることである。Cグループ長曰く「うちは、本部営業部から回ってくる仕事が殆どで、他の営業部とは異なる対応が不可欠だ」と・・・しかし、Cグループの島にある管理キャビネットを開けてまたまた驚いたという。それは、半年以上前の書類が山積みになって放置されている。その中を見ると、本来業務フロー上で処理前、処理後の取扱や保管方法は一定のルールがあるのだが、全くそれを無視しているという。結果としてCグループにおいて業務上の処理エラーが幾度か発生しており、そのCグループ長が直々に営業に連れられてクライアント先へ謝罪に行くこともあるというのである。 Sさんは、こんな状況なので早々に、戻してもらおうかというのである。これまでのキャリアと信頼度から鑑みれば、それは勿体ない事だと思う。まさに、業務改善そのものの立役者になるべきでもある。ここで、どのように考えるべきか? まずは、部長の話である。Sさんによると、部長は「うちの部は問題なく円満に仕事ができている」と認識している。特段、3グループの長にも不満もなく、プレッシャーをかけることも無いという。次に、グループ長の話では、3グループ長の定例会で常に、A・B長が、C長に対して業務フローの統一を図ろうと持ち掛けるのだが、前述の通り、頑として聞き入れられない。B長曰く「あいつ(C長)は頑固だから、ダメだわ・・・」とSさんにこぼしたという。次に各グループのスタッフ達は、A・Bのスタッフは残業も少なくお互いに困ったときは助け合える環境も関係もできているという。ただ、Cのスタッフは「うちはやり方が違うから・・・」と特定のスタッフの残業時間が多かったり、傍らでは時間を持て余すスタッフがいたり・・・更には、重要書類のアーカイブに時間がかかったり、紛失が発生したりと、大変そうである。 ここで、この部の課題と問題を整理したいと思う。先ず、この部の課題(あるべき姿)は何か?である。 1.営業部から回ってくる業務を納期通りにミスなく円滑に処理する 2.働き方改革の流れの中で「残業を0」にする 3.部門内全員が「有給」を可能な限り消化する 4.フレックス・時短・在宅勤務などの変化に柔軟に対応できる組織管理 といったところである。 では、問題点とは何か? 1.業務フローが統一されたルールに沿っていないために、円滑な処理が行えていない 2.個人への仕事配分管理がなされていないために、業務負荷が個人に依存している 3.有給がとりやすい環境・空気感・人間関係にばらつきがある 4.個人の生活スタイルにより、その調整が個人任せになっているために、在宅勤務の生産性が低い これらの問題を解決するには、 1.業務実態監査を実施して、3グループの業務プロセスの差分(GAP)を「見える化」して、それぞれの項目においてスコア化する。その上で、統一した業務フロールールを再構築する 2.グループディスカッションを第三者同席で実施し、感情的・精神的なわだかまりの排除に努め、グループとしてのベクトルを揃えるタスクを実施する 3.円滑な組織内コミュニケーションを構築する為の時間を設定する。(定期ディスカッション、グループワーク等) 4.フレックス・時短・在宅勤務を実施し、継続する際に必要な項目出しとそれにかかる物理的要因や個人への負担度合いを見える化し、スタッフ全員にどの実施項目が現実的を検討し、試行した上でその経過観察をする。(生産性を測る指標が必要) といった話をSさんに、提言した。今後、数カ月かけてまずはCグループの実態を整理し、まとめる事が第一段階として進めるようだ。コロナ禍の状況で、今まで通りにスムーズには進めにくいが、このような組織内部の潜在的課題や問題はマダマダ多く散在している気がする・・・ -20200604-
#選択の代償 番外編_8
08:23
#選択の代償_番外編No1~No15

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